Weezerって本人たちのやりたいスタンス(ジャンルやサウンドではない)変わらなくても、世間が置きたがる立ち位置が変わる珍しいタイプのバンドって感じがする。
これまでの人生がある限り、どうせ死ぬときは後悔しかしないから、その手前までは幸福に過ごせるように、全力かけられる趣味にフルスペック出したい。
体面を大事にして、就職してから嫁さん見つけて祖母ちゃん安心させてやろうとか考えていた、その挙句が恐らく就活ストレス素因(複数あるだろうけど)での難病発症オチだったので、俺は真人間になる道を選ばないほうが、きっと正解なんだろうよと割り切ったところがある。
生じゃないお菓子を撮るとかなら、まだ撮影も丁寧にしようかと考えるところもあるけど、食べることに意義があるものを、いちばん美味しい瞬間逃してまで撮影できないというのが、食事写真が上達しない秘訣や。(秘訣じゃなくて原因だろ
今のところウケそうというと聞こえが悪いけど、(被写体ごとにアプローチの違いはあれ)カッコよく撮ろうとしているなと感じさせる色遣いとか、明るさの階調感ってのは少し分かってきた気がして、「あ、これはカッコいい」と思ったとき、そういう色彩と合うなら、そこに寄せて現像するようになってきた。
しかし『ゼロ・グラビティ(原題:Gravity)』の単語ひとつ、僅かな工夫で、映像体験としての売り出しかたは100点で、映画作品としての題としては0点になるの、良きにつけ悪しきにつけ面白いなとずっと思う。
しかし、野鳥撮影で散々苦労したから分かるけど、改めて見て135mm f1.8は身近な野鳥相手ならISOを犠牲にせず動体を撮れる良いラインの設計なんよな。
視線誘導のとき、スナップ感覚だと路面に引かれてるようなレベルの明確な線があって、それがある時って、構図の切り方によっては画面の重心が変わって、被写体の奥にまで線があると線に誘われる方に流れていきそうになる気がするんだけど(体感)、それを止めるときに明確なビジュアウェイトがあると、ひとの目ってそこでバシッと止まる感覚があって、ポートレートだと目線や顔の向きがその手段になる気がする。
先日、前職先輩のご家族ポートレート撮ることになって衝撃だったのは、ほんまに幼稚園くらいの子どもの肌って綺麗で、美肌加工とか1ミリも要らないんやなということでしたわ。すごョ。。。
標準域単焦点は、自分の持ってるキットレンズで上手く撮れない限り、買わない縛りがかかってます。(iPhoneで広角側と望遠側ばかり使ってたので、いちばん不得意なレンズ
ひとの写真読むの楽しい!
よっぽど変化球現像してない限りは、きちんと見せたい意図が読み取れるから楽しい。(それをなぜ君は小説で(言うな言うな
そのいいねやめろい……。レギュレーションでかなり意図してない画角に変更して、自信があって送ってないんだわ。(あと、どっちかというと、自分が撮った写真をプリントすることに興味があったので……