音楽や草木のこと、考えごとなどのミニブログ a very personal microblog on small music, neighbour nature, and things on my mind / 福岡 Fukuoka Japan
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木陰でオカリナを吹いていたら御家族の方々が声をかけてくださった。水辺でちょっと遊んで行かれた。
さっきは駅のピアノで聴いてくださった方と偶然お目にかかった。見たかった方の作品も拝見できて、出かけてきてよかった。
この世界が彌勒さんが亡くなった後の世界だという思いがときどきやってくる。そしてそのたびに信じられない思いがする。
そういうようにこれまでさまざまな方の、その方が生きていた世界と亡くなったその後の世界を生きてきた。そのひとつひとつが重いことだった。
自分がやってきた「ぽつぽつ音楽」の現在地がこのあたり。音をここにひとつひとつ置く、それ以外に何をしているか自分でもまだよくわからない。
音を置く〜ぽつぽつ即興/ソラリアプラザのストリートピアノにて putting sound on the place - with a publi... youtu.be/1K9o4tvZO8E?...
★ 演奏者は手しか映りません★ コメント・評価は非表示にしています 以前から福岡近在のパブリックピアノ(ストリートピアノ)で、曲を弾くかたわら、ぽつぽつと音を鳴らすぽつぽつ即興をしている ぽつぽつ即興と言っても実際には短いフレーズをその場で編みながら「ぱらぱら」と弾く感じのことが多かったのだけれど、このごろ、もっ...
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この唄をよくオカリナで吹いている。もとの民謡がピアノ向けに編曲されていてそれを吹いていたのだったけれど、年月が経つにつれて自分流の節回しになってきた。
公園オカリナ 牛呼び唄 youtu.be/XfpIv9GDc3M?... @YouTubeより
牛呼び唄ノルウェー・ロム地方の民謡 エドヴァルド・グリーグがピアノのために編曲したものをオカリナで吹いていてだんだん自分流の節回しになった 2024年5月18日 Kulok (cow call) from Lom, Norway arranged by Edvard Grieg, more arranged by...
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この動画は追悼のために。
公園オカリナ 星影のワルツ youtu.be/fSZV2YBi3-k?...
星影のワルツ 作詞 白鳥園枝 作曲 遠藤実 歌 千昌夫 ある方の追悼に、その方がお好きだという話を聞いておりました「星影のワルツ」をオカリナで吹きました コメント・評価は、受信はできますが非表示にしております ご了解ください どら梅
youtu.beじっとしていると、気持ちだけでも宮崎へ行きたくて心がちぎれそうになる。というか、ちぎれてどのくらいかいま飛んで行っている気がする。
初めて作品を観覧したのが2007年か8年かその頃の福岡での個展だったと思う。会期中に何度か観覧させていただいた覚えもある。ほかにお客さんがおられないときに、大きな桜の絵の正面で座り込むようにして花の散るのを見ていたこともあった。いま振り返ってほんとうに、見させていただいた、という気持ちがする。
画家の彌勒祐徳さんの御訃報を、昨日ニュースサイトを見ていてたまたま知った。5年前に宮崎で開かれた100歳展を観覧してツイッターに感想や思いの丈を書き、そのあとも折りにふれてツイッターで彌勒さんの絵にまつわる思い出を書いてきたので、ツイッターのほうで自分のいまの気持ちを書いた。
x.com/draume/statu...
むかし一家で「プロポーズ大作戦」を毎週見ていた。テーマ音楽も思い出せる。私的にも社会的にもいろんな意味でむかしのことになった気がする。
(意味を参照しない、意味に持って行かれない、新しい意味にもならない、だからといって「無い」のではない、そのようにあるもの。
意味を持って社会の中に根ざすのでなく、そのようにあることだけでもってここに根ざす、そんなようなもの)
(自分がほんとうに作りたかったのは何か。何、と言えないようなものを作りたかった気がする。何でもないというより、何と言えないような。
音楽も、音楽だと言う以外に何と言えない、それだから作ろうとしていたのかもしれない)
考えてみれば、できていたことのほうが不思議は不思議なのだけれども。不思議とできていたことができなくなってもそちらのほうは不思議ではないというか、仕方がないかもしれない。
4月に阿蘇白川駅のピアノを弾いたときの録音と写真で、短いスライドショーを作った。
阿蘇白川駅のピアノをぽつぽつ弾く a bit improvisation with an electric-acoustic piano at ... youtu.be/_euN-UjWrjQ?...
そういえば先日のピアノの場で、けっこう派手に即興している感じの方がおられた。ワンコードだなと思って聴いていて、ふと気がついて手元を見てみたら、黒鍵だけで演奏なさっていた。
手慣れた感じというか、片手オクターブや両手ユニゾンなどピアノを弾くことには習熟なさっている様子で、自分の表現として黒鍵即興をなさっているのだろう。クラスター的に鳴らしても黒鍵だけだからいわゆる耳障り感が少ない。そこまで考えてのことなのだろうなと、聴きながら思った。
ひとしきり演奏なさった後、さっそうとお立ち去りになった。
それはそれとして、誰かに自分の演奏を贈る、プレゼントするというのはあり続けそうな気がする。
「人聞きのいい」というか、一般的に聞こえのいいフレーズやパッセージをBGMとして適宜ぱらぱら鳴らすみたいなことは、もうAIに任せたら自動でやってくれるだろうから、そういう誰かのニーズに応えるようなこととは違うことを人間としてやっていたい。
人間の活動として、自分自身がすることとして、音楽「する」ことが社会の中であらためて位置付け直されたらいいと思う。
その意味では、産物として出てきた音楽がごつごつでも、利用価値がなくても、感動をもたらさなくても、それはそれだと思う。
そうした「音楽する」ことが、なにかと音楽に線引きをして要求を突きつける社会の中で、どんなふうにできるのか、できていけるのか。
「人聞きのいい」というか、一般的に聞こえのいいフレーズやパッセージをBGMとして適宜ぱらぱら鳴らすみたいなことは、もうAIに任せたら自動でやってくれるだろうから、そういう誰かのニーズに応えるようなこととは違うことを人間としてやっていたい。
人間の活動として、自分自身がすることとして、音楽「する」ことが社会の中であらためて位置付け直されたらいいと思う。
ぽつぽつ即興するときに旋法的に音をたどることもけっこうやっていて、そうすると「人聞きのいい」フレーズができたりするのだけれど、ぽつぽつという感じは減る。
このときは旋法的に鳴らそうという気持ちともっとぽつぽつと音を鳴らしたい気持ちとがまとまらなくて、結果ぽつぽつでもさらさらでもなく、ごつごつになった気がする。
JR木葉駅のピアノでぽつぽつ即興 a bit-by-bit improvisation with a station piano (JR Kon... youtu.be/MmGNG13Gsuc?...
★演奏者は手しか映っていません熊本県玉東町、JR木葉駅の駅ピアノ「駅ピアノこのは」を弾かせていただいたときの動画 思いついた音をぽつぽつと鳴らすぽつぽつ即興 いろいろな場所のピアノでぽつぽつ即興をしている、というか音をぽつぽつ鳴らしている ぽつぽつの度合いとか聞こえ具合とかはそのときどきでいろいろ このときの即興...
youtu.be公園のベンチでひととき休んで立ち上がったら、向こうの高齢の方々の施設らしき建物の屋上からこちらのほうをごらんになっている方が見えた。私を見てらっしゃるようにも見えたので、一瞬手を振ろうかと思ったけれど、思いとどまった。その方は付き添いの方々とともに屋上を後になさっていった。
かといって、純粋な正義みたいなものを追求するとか要求するとか、純粋な正義だけを正義だと認めるとか、そういうふうになるとそれもまた誤りなのだろう。
なにがしか誤らないわけにはいかないのかもしれない。
それにかぎらず、踏まれ奪われ無くされないために踏み奪い無くすということが、さまざまな時のさまざまな所であったと思う。ときには、踏まれ奪われ無くされることを恐れるあまり、その前にその当のものを先に無くすということも。
しかるべきときに正義を呼ぶのは当然だとしても、正義を掲げて動き始めるとそういう方向への分かれ道がきっとたくさんあるだろうと思う。
それにかぎらず、踏まれ奪われ無くされないために踏み奪い無くすということが、さまざまな時のさまざまな所であったと思う。ときには、踏まれ奪われ無くされることを恐れるあまり、その前にその当のものを先に無くすということも。
しかるべきときに正義を呼ぶのは当然だとしても、正義を掲げて動き始めるとそういう方向への分かれ道がきっとたくさんあるだろうと思う。
正義は、踏まれ奪われ無くされる、その状況の中から、踏まれ奪われ無くされたもののために呼ばれるのだと思うけれど、そこにたとえば復讐のように相手のほうへ向かう動機が入り込んでいると、相手を滅ぼす、こちらを踏みそうな者をこちらで認定して先に踏む、そういうほうへ動いていきかねないところがあるだろうとも思う。
よさそうなスローガンというか疑いを入れづらい正義の言葉を掲げて実行されている活動を全般的に少し警戒している。自分が信じている理念と同じだったり近かったりしている場合も。その正義を掲げるに至るまでにとても難しい事情があって、その上でということもあるだろうとは思いながら。
安心・安全という言葉が最近は正義の旗印みたいにしてやたら言われるようになったけれど、安心安全の過剰追求はその先に悪のほうへつながる分岐がたくさんあると思う。
怖がるというのは知識がない対象への反応として、正しいとか誤っているとか以前にありうることだと思うけれど、怖がったあげくに滅ぼそうとするならそれは誤りのほうへ踏み出したことになると思う。虫にかぎらず。
自分はいわゆる自然と親しんで育ったほうでなく、虫などもどちらかというと嫌っていたほうだけれど、まちなかでも草を見ていると虫と出くわすことが多いので自然と慣れた。電車の車内で虫がいたらだいたい逃す役回りになる。ただ危険性などの知識が十分でないから、慎重を期したほうがいいはずとも思っている。
ピアノはこのごろ曲を弾こうという気持ちが薄れている。いろいろ弾いたり練習したりはしている。昨日もあまり気が進まず、スメタナのポルカを少し弾いたらそれがよかった。スメタナの曲を数曲たどった。昨日がスメタナの命日だったと、いましがた知った。
あいつは悪者だ、という話は、確証抜きでもとても伝わりやすいし拡散もされやすいように思う。良い話の潜在的需要も大きそうだけれど、「悪者」についての話は需要とは言わないにしてもぽんと受け入れられる素地みたいなものがどうもありそう。
ナガミヒナゲシの観察報告はむかしツイッターでたくさん書いたのでもう手掛けたくない。ナガミヒナゲシのほかの草への影響をきちんと言いたいならナガミヒナゲシだけ見るのでなくてほかの草の様子も見てもらいたい。