エドマンド・バーク『崇高と美の起源』読み始めた。序論によれば「すべての人間に共通な規準が、理性と趣味(taste)の両面において、存在しているように思われる」とのこと。「趣味」というより「センス(が良い悪い)」と行ったほうが感覚的にピンとくるかも。現象学のあれこれ、本質直感のしかじかを思い出しつつ、そして18世紀当時の一般認識を類推しながら読んでいく。
エリック・マコーマック/増田まもる訳『ミステリウム』(創元ライブラリ)読了。マコーマックの最高作と個人的に信じてやまない作品。この著者らしく一筋縄ではいかない。途中で唐突に挿入されるノシュール『一般犯罪学講義』をはじめとする一連の現代思想のパロディをどうとるかで、印象はがらりと変わる。素直に読めばバラードの後期メタミステリ作品群のようにも読めるし、あるいはレム『捜査』のような読後感のまま、宙ぶらりんでおわることも可能。『パラダイス・モーテル』『雲』を思わせる描写を含め、自作への言及も含めて遊びの多い人だけに、ジーン・ウルフやレオ・ペルッツ並に再読、再再読したくなる人だ。
しばし熟慮のうえ、今夜はマコーマック『ミステリウム』を読むことにした。約10年ぶりの再読だけれど、やはりべらぼうにおもしろい。第一部を読み終わってキリが良いので、今夜はここまでにしておこう。
おお、いよいよか。これはたのしみ。
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オラフ・ステープルドン『最後にして最初の人類』(浜口稔訳、ちくま文庫)責了にしました。6月10日発売。 https://t.co/2ph8tD7Syk
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吉田健一は「近代」という言葉が指し示す意味についてもかなり拘っていたようだ。そして氏が述べるように、少なくともヨーロッパが代表する世界において「近代」が19世紀から第一次世界大戦までを指すとすれば、第二次大戦で完全にそのフェーズは終わったとみるべきだろう。
さらには自分が生まれ育った時代を「現代」と呼ぶならば、現代はおそらく2000年あたりには(9.11テロをもって明らかに)終わったとみるべきと思う。それでは「今」は何なのか。現代の先に果てしない曠野が広がるこの時代は。
吉田健一『余生の文学』(平凡社ライブラリー)読了。収められた11のエッセイはどれも広い意味での文学論になっている。例えばスウィフトの黒い笑いを例にとり諷刺というものの本質について述べた「諷刺と笑い」。あるいは世界文学の中に日本文学を位置付けることで、特殊な「日本」というフィルターを取っ払って文学というものの意義を明確にしようという「日本文学と世界文学」など、どれも首肯しつつ読む。言葉に関する意識がとても高い。この人が何を書くかではなく、どう書くかにここまで拘っていたとは知らなかった。
個人的に特に読み応えがあったのは「時評」と表題作。もう少し歳を重ねたら、またいつか読み返したい。
朝の通勤電車、ホームで並んでいたときのこと。外見70歳くらいの爺さんが列の横で怪しい動きをしていたと思ったら、電車がきたら自分の前に割り込んで来ました。どうしても席に座りたかったのか。けっこう空いていたので、そこまでしなくても座れたのに。座ってからも窓に肘をかけたりキョロキョロしたりと落ち着きないことこの上ない。
中日ドラゴンズの帽子を被ってドラゴンズのタオルを首に巻いて、朝からドーム球場に行く気まんまんの格好をしたあんただよ、あんた。まったくもー。
(誰かに言いたかったので愚痴です。)
吉田健一『余生の文学』約三分の二まで読んだ。恥ずかしながらこの人の文章をこれまで殆ど読んだことが無かった。かなり密度が濃い。
そして、ここまで文章や何を書くかではなく、いかに書くか、つまり言葉そのものに関する意識(というか感度?)が高い人だとは思っていなかった。読み応えあるね。