学習記録になりつつある!ドーナツの穴のところにあった生地を全て私にください!
ほとんどツイッターと同じことを呟いているから、頭のいいわっきゃいが気づいたら、わっきゃいが僕の本名とスノの組み合わせを知っている人になってしまう!!爆死する!!
ヤバい!!!!私のスレッズを1時間前にわっきゃいが読んだ跡(いいね)が3つもある!!!!!爆死!!!!!!!!プロポーズしたら、受けてくれるかな〜😣😔😞
木星は横から(宇宙の横とは?)(太陽系からの横だ!たぶん!知らないけど!屁理屈!)みたら、木星かもしんないけど、上から見たら渦星なんだよ。いいね!たのしい!
NASAは画像を公開!ヤサスィー!
これはジュノーという木星用探査機のやつ!(スノは木星好きとある界隈では有名)
その先生は、僕の体を使って作用反作用の法則を解説してきたから、ずっと睨んでたんだけど、どんなクソ質問をしても僕がわかるまで説明してくれたから、嫌ってあげてたんだ。にっこり。
オイラん口癖、「クソ」
その口癖を高校生ん頃のジジイの先生から、「クソ〜?!ク、ク、クククククソなんて言うのですか?!クソって意味知ってますか?!」って言われて、僕は「?」「クソだが〜!」って言ったら、「うんこだ!」「君が物理をクソ分からんとか言うのは、うんこ分からんってことなのですよ!」って言われて、僕は「(うんこ?)超面白い」って言ったんだった。
これを今朝もう一度みて、再びにっこりモードになった。何度でも爆死!
パウルクレーの絵を見て、見た瞬間に、唸り声が出て、どうにか言葉を!と思うけど、なかなかうまく言えなくて、この唸り声が唸り声のままで、もどかしい!
心が暖かくなった(ぽかぽかになった)(治ったって表現はしない!)
うれしいという感情があってうれしい
たのしいです
ドキドキする感じがします
心臓が動いているーーーーーー!!!
恋は盲目って言うけど、心があたたかいとき、僕は世界に対して盲目になってる
とか思ったけど、架空の人物に怒るのは得意
私の先輩は球面の上に点を均等に置けないって長年の悩みがあったりして素敵
私の教授は球面が好きって言ってて素敵
私は球面は始まりと終わりがあって永遠はドーナツだからドーナツ食べたい。特に、ハニーディップが食べたい。と言っていて、たのしい。
理系と呼ばれる物事を理論的に理解しようとしたり(?)、もう、全て、破壊したい。君たち、世の中を舐めるなよ。君たちは、芸術をやっているんだよ。美的感覚を持ち合わせているでしょう?
僕は数式や地球に。君は何?宇宙?人体?ヌフ〜ん( ◠‿◠ )
例えば、何かの役に立つとか、将来のためとか、いろいろあるかもしれないけど、それはそれらが持つ副次的な効果に過ぎない。
本来、学問というのは興味で成り立っている。
興味がないのにやっているのだとしたら、副次的効果を欲しがっているのだとしたら、それは学問ではないと僕は主張したい。学んでいない。ただ会得しただけさ。無意味さ。でも価値があるならいいよね。
しかしながら、こうやって言葉にすることで、言葉としてそこにあることで、自己が他者として存在してる気ができて、なんだか楽になれるんだ〜〜 そんで、こんな利己的でヘドロのようにめちゃくちゃなのを美しいこの空間に流していいのか?って疑って不安になって自信を失ってってなるんだけど、それこそが生命(話の飛躍が凄まじい。笑って。)って思う。生きるって常にカオスだよ。それから言っておくけど、理学に限らず研究は他者のためであるかもしれないけど、僕は利己的だと思っている。興味こそが科学の発展であると思っているから。それと芸術の対比は意味不明だ。科学と芸術は対だ。
やっぱり、心の中で引きこもりたがっている。誰ともコミュニケーションを取りたいと思ってない。(_ _).。o○
すなわち、誰のことも愛してないし、愛そうともしてないし、愛したいとも思ってない。(T_T) ややおちこむ。
書き始める。同じことを永久に繰り返す。ここを楽園でないと、思い知らされたりする。楽園に行きたいと願ったりしてるわけじゃない。知らない間に楽園を感じて、この世をすこしだけ気に入ったりうれしくなったり感謝したりして、その分だけ少し悲しくなるときがあるってだけの話だ。
やっぱ、僕は全然完璧じゃなくて見てしまうだけでダークになったり、軽々しく使いたくないが最悪って気分になったり、するときもある。不愉快という感覚を持ち合わせている。いや、むしろ、不愉快や不快感と言った負の感情が多い。それを忌み嫌っている。細い細い線で掻い潜って避ける。うまく避けれるように、目的地をお気に入りの場所たちに設定する。
お気に入りの場所は、本当にお気に入りで夢中になれる。別の苦しみがあったりもする。総じて、自己であり、喜びである。そうしてるうちに、忌み嫌うものを忘れ、楽園にいるかのような気持ちになる。時々、不意に忌み嫌うものを見たり聞いたり会ったり触れたりすることで、再び細い細い線を
filmerksをさっき開けてみたら、感想が「秘密!」とか「ひみつ」とか「にひひ」とか「死ぬまでにあと76回見たい」とかで、尚且つ星をつけてないのにその感想をいいねしている人が何人かいて、すこしこころがぽかぽかしました。
そう思うと、今まで小説でないと思っていたものも小説と捉えられる気もしてくる。評論が好きと言っていたが、評論も確かに好きだが、評論じゃなくて、状態の描写も好きだったりする。状態の説明を今まで、評論として理解していた。それは、説明という観点で。しかし、状態というところや状態をどう認識するかというところに焦点を合わせれば確かに小説として成り立つかも、と思った。たのしいです。とても。
太宰治は、きゅうりのことをキウリと言ったり、テーブルのことをテエブルと言ったり、傘のことを傘と言ったりアンブレラと言ったりしていて、とても好きだったんだ。それ以外にも好きなところはたくさんあった。青空文庫を縦書き表示するやつを見つけて、それでやってみたら読めた。そした、芥川龍之介とか夏目漱石とか夢野久作とか、読みたいと思っていた人たちも読めるかもしれないと思った。でも、縦書きとか関係なしにたまたま太宰治が私に合ってただけかもしれない。
どこか自分の人生は自分任せすぎて、他人事のように感じるときがあって、心のどこかではとても焦っているが、それをそう感じさせないほど落ち着いている私もいるって感じ。へ
今日と昨日は混ざり合っている。今日やらなければならないことは、今日やっていない。のこり4時間だ。お風呂に入ったりご飯を食べたりしたら、のこり何時間になるだろうって感じだ。昨日か今日かわからないけど昨日、いや、眠る前に思ったことは、私は何にでもなれる気がするから何にでもなりたいと思ったことだ。例えば、肩書きをつけるなら、意味のない組み合わせの肩書きを羅列したいとか。